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激動の時代「昭和」の様々な事件 Part4


173:名無しさん:2014/03/28(金)19:45:20 ID:UEGbaU1Ir
瀬戸内シージャック事件

昭和45年に5月に広島で発生した観光船乗っ取りを中心とした一連の事件。
本件は人質事件としては犯人射殺により解決した初の案件。また射殺の瞬間をマスコミが報じ
ることなどにより人権問題へと発展し、日本の警察における銃器使用に非常に大きな影響をも
たらした。

犯人は所謂問題児で、小学生のころから素行不良となり施設や少年院への出入りを繰り返して
いるような男だった。犯行は仲間三人と福岡市内で乗用車を盗難したところから始まり、
検問でまず警官ともみ合いになり警官を刺した男が逮捕され、二人で広島方面へ逃げた。
その間に山口県内で別の軽乗用車を盗難して、広島の郵便局強盗を二人で計画、ところが
広島市内に入ると警察による警戒線が多数張られており何もできないまま市内山中で仮眠し
ていたところを発見された。追跡を受け、持っていた猟銃で犯人が警官を威嚇するとその隙に
もう一人の男は逃走、犯人は通りかかった軽乗用車に銃を向けてその車に乗り込み市内へと
逃げた。市内でなじみだった銃砲店に押し込みライフル2丁、猟銃1丁、銃弾380発を
強盗してフェリーターミナルのある宇品港へと向かった。
その後犯人は停泊して観光客を乗せていたフェリーを乗っ取り乗客乗員46名を人質にして
籠城した。フェリーは一度松山へ向け出港し、その間に警備艇にいた警官一名をライフルで
銃撃して重傷を負わせている。
松山に行く途中で肉親からの説得を受けるが、全く聞き入れられなかった。松山港についた
観光船は乗客を全員下船させて給油の後再度広島へ向かい宇品港へと戻ってきた。

戻ってきた犯人はライフルを乱射して仲間の男の釈放を求めるなどした。この際に警察の
ヘリに向かって発砲し、このヘリは危うく墜落しそうになった。宇品港に戻った1時間後に
待機していた大阪府警のライフル隊の銃撃によって左肩付近を撃たれて銃撃後1時間半あまり
で病院にて死亡。銃撃の瞬間はテレビカメラでゆっくりと犯人が崩れ落ちるシーンが生中継
されており、国民に衝撃をもたらした。

事件の後、人権擁護の観点から学者やマスコミから他の方法で犯人確保できたのではないか
との非難の声があがった。最終的に人権団体が犯人銃撃にかかわった大阪府警の巡査部長と
広島県警本部長を広島地検に告訴するに至った。しかしながら裁判所は各所への聞き取り調査
の後、業務は正当防衛であり、正当な職務行為となる理由があるとして不法行為には当たらな
いとの判断を下して不起訴、その後の抗告に対しても棄却が決定されて最高裁で確定した。
本件を受けて、警察は業務時の拳銃使用に非常に消極的になり、拳銃を業務で極力使用
しないようになり、特に海外からの流入による拳銃事件が多発するようになるに従い、警官
の殉職事案が多発するようになってしまった。これを受けて平成13年に法律が改定されて
使用要件が明確化されて改定前に比較して拳銃の使用回数が大幅に増加することとなった。

また、本件の直前に起きたよど号ハイジャック事件の影響があり、本件は「瀬戸内”シー
ジャック”事件」と呼ばれるようになった。”シージャック”とは和製英語であるが、
その後に長崎で起きたバス乗っ取り事件も「長崎バス”ジャック”事件」と呼ばれるよう
になり、誤用が一般化してしまった。

瀬戸内シージャック事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E6%88%B8%E5%86%85%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6

174:名無しさん:2014/03/28(金)20:13:31 ID:phavDwFpi
薬害エイズ事件

薬害エイズ事件1980年代に主に血友病患者に対し加熱などでウイルスを不活性化しなかった血液凝固因子製剤(非加熱製剤)を治療に使用したことにより、多数のHIV感染者およびエイズ患者を生み出した事件。非加熱製剤によるHIV感染の薬害被害は世界的に起こったが、日本では全血友病患者の約4割にあたる1800人がHIVに感染し、うち約600人以上がすでに死亡しているといわれる。


原因はヒト免疫不全ウイルス (HIV) に感染したと推定される外国の供血者からの血液を原料に製造された血液凝固因子製剤を、ウイルスの不活性化を行なわないままに流通させ治療に使用したことである。


後にウイルスを加熱処理で不活性化した加熱製剤が登場したため、従前の非加熱で薬害の原因となった物を非加熱製剤と呼ぶようになった。HIVに汚染された血液製剤が流通しそれを投与された患者がHIVに感染して、エイズを発症したことから多数の死者を出した。


日本においても非加熱製剤によるエイズ被害が発生し行政の不作為が問題視された。


しかしエイズが感染後に長期の潜伏期間を経て高確率で発症することが明らかになったのは1980年代の後半以降であり1986,1987年頃までは専門家の間でも抗体陽性者の発症率は低いとする見解もあった。


そして1989年5月に大阪で、10月に東京で後述の製薬会社と非加熱製剤を承認した厚生省に対して損害賠償を求める民事訴訟が提訴された。


1996年2月16日、菅直人厚生大臣は原告団に謝罪。3月7日、東京・大阪両地裁は発症者に月15万円を支給する第二次和解案を提示し5社が3月14日に,国も翌15日に和解受け入れを発表。


原告側も3月20日に受け入れを決め、3月29日に両地裁で和解が成立した。



薬害エイズ事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%AE%B3%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

175:名無しさん:2014/03/28(金)20:14:07 ID:UEGbaU1Ir
力道山刺殺事件

昭和38年当時絶大な人気を誇っていたプロレスラー力道山(日本名:百田光浩、朝鮮名:金信洛)
が刺殺された事件。
本件は被害者本人が事件直後に病院で治療を受けていれば問題なく治癒していたと思われ、力道山
が奇しくも豪放な正確な持ち主であったことを知らしめるエピソードを残してしまった。

事件そのものは赤坂のクラブで飲んでいた力道山が、たまたま同店で飲んでいた暴力団員と口論
になり暴力団員が持っていた登山ナイフで力道山を刺傷した。力道山は傷が浅いと感じていた(
実際には根元まで刺さっていた)ことと自ら持ちかけた喧嘩だったことから警察沙汰にせずに応
急処置だけして帰宅してしまった。翌日になり症状が悪化したため、力士時代から贔屓にしていた
山王病院へ入院した。しかしこの病院には力道山を執刀できる外科医がおらず別の医者を呼びつけ
て当日夜に執刀し、手術は無事終了した。ところがその1週間後、傷口を見た院長が腸閉塞を起こ
しているのを発見し、急いで手術医を呼び寄せて再手術するも手術後にショック症状を起こして
そのまま死亡した。死に際し力道山は何か呻くように三本の指を出しながら最期を迎えたという。
三本の指が何を意味するのかは今もって謎である。

死因としては直接的には化膿性腹膜炎とされているが、なぜ患部が化膿したのかは定かではなく、
医療過誤であるとか力道山が術後禁止されているサイダーを飲みすぎたなどといわれている。

本件の犯人の男は懲役7年が最高裁で確定して服役、平成25年まで生きた。

力道山刺殺事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E9%81%93%E5%B1%B1#.E5.88.BA.E6.AE.BA.E4.BA.8B.E4.BB.B6.E3.81.AE.E9.A1.9B.E6.9C.AB

176:名無しさん:2014/03/28(金)20:34:25 ID:phavDwFpi
京大天皇事件

京大天皇事件は1951年(昭和26年)11月12日の昭和天皇の京都大学来学に際して発生した混乱、及びこれを発端とする学生処分事件。「京大事件」あるいは「天皇事件」とも称される。


1951年11月12日、関西巡幸途上の昭和天皇が京都大学に来学するとこれを見物しようとして同大学正門付近に押しかけた多数の学生と警備の警察官との間で若干の小競り合いが生じ、また天皇が京大に滞在している最中遠巻きに見物していた学生のなかから反戦歌の合唱が起こった。


この出来事自体は逮捕者すら出ない突発的ハプニングに過ぎなかったが、直後の国会審議で文相および保守派の議員が学生の態度を「不敬」などとして非難しマスコミも同様の論調をとった。


これに反応した京大当局は15日、天皇に「公開質問状」を提出した同学会(京大全学学生自治会)に解散処分を下し17日には学生8名を無期限停学とした。


昭和天皇が関西地方巡幸の過程で京都を訪れた1951年は、講和問題や賃上げ問題などをめぐって全般的に労働運動・学生運動が復活の動きを見せた年であったこともこの騒動の遠因である。


京大天皇事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%A4%A9%E7%9A%87%E4%BA%8B%E4%BB%B6

177:名無しさん:2014/03/28(金)20:53:19 ID:UEGbaU1Ir
光クラブ事件

昭和24年に起きた高利貸金業者を物価統制令違反として検挙した事件。警察による検挙の案件だけでなく、
ターゲットとなった「光クラブ」の創業からその終焉まで全体を捉えて「光クラブ事件」と呼ぶことが多い。
戦後の「アプレゲール犯罪」の代表とされる事件。

昭和23年光クラブは当時東大生であった男が、仲間である日本医科大生や中央大生など大学生を集めて、
ヤミの高利貸し業を始めた。光クラブはほかの業者と違い、現在でいうところのマーケティング能力に
非常に優れており、たちまちにして多額の資金調達に成功して急激に成長した。金融業としては変わった
名前で素人受けし、東大生が運営しているなど信用も勝ち取った。翌24年には資本金600万社員30人を
擁していた。

ところがこの年の夏、この東大生は警察に物価統制令違反を名目として逮捕された。
物価統制令とは当時のGHQの施策によって発令された法律であり、直接の違反条項となったのは第十条の
何人ト雖モ暴利ト為ルベキ価格等ヲ得ベキ契約ヲ為シ又ハ暴利ト為ルベキ価格等ヲ受領スルコトヲ得ズ
との事だった。東大生の男は本件においてもあわてず持ち前の法律知識を持ち出して本条項の問題点
である何をもって暴利とするのか、という部分を巧みに突き、最終的に不起訴処分を勝ち取った。
ところが、検挙に伴ってマーケティング効果で得ていた巷間の信用を一気に失墜させるところとなり、
逮捕に動揺した出資者が資金の返還を求めてきた。最終的に3000万円を用立てする必要に迫られたが、
遂にその資金を集めることができず、逮捕の4か月後、返済期日の前夜に服毒自殺を遂げた。

光クラブがなぜ検挙されたかという点は、当時横行していた闇金に対する一罰百戒の意味を込めて目立っ
ていた光クラブがやり玉に上げられてしまい(結果的に立件はできなかったが目的達成には奏功した)、
さらに光クラブ内にいた内通者(秘書の女が税務署官の恋人だった)がいて内情を探ることができたた
めと考えられる。
本件は自殺した東大生の言行録が現代にいたるまで残されており、その特異な人物像が語り継がれて
いる。

本件はライブドア事件が発生した際に、嘗て近似の事件があったとして再注目された。

光クラブ事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6

178:名無しさん:2014/03/28(金)21:36:49 ID:phavDwFpi
中川一郎怪死事件

中川一郎怪死事件は1983年(昭和58年)1月9日早朝、自民党の大物政治家・中川一郎が札幌パークホテルの浴室で謎の死を遂げた事件。


1983年1月9日早朝、自民党の中川一郎(当時57歳)が宿泊先の札幌パークホテルの浴室で死んでいるのを夫人の貞子さんが発見し事件が発覚した。


当初、死因は「急性心筋梗塞」ということだった。ところが、2日後の11日になって、死因は「首吊り自殺」であったことが発表された。


しかし中川の首吊り自殺は不審な点が多く、いまでも「他殺か自殺」か論議が分かれている。


まず、自殺方法に疑問を呈する声がある。


中川は、浴槽に座ったまま浴衣の紐で自分の首とタオル台の留め金を結んで自殺していた。警察の検証ではこの方法でも死ぬことは可能であることが立証されたが、この方法は最期の瞬間まで自身の意志で死に向かい続けなければならない。


このようなことが人間として可能なのだろうか、という点が挙げられる。


さらに、死亡してから僅か2日後に荼毘に付されており遺体の検証も十分でなかったと指摘する声もあった。


一般に大物政治家であれば遺族は党との相談で葬儀をする事情から死亡してから数日間はそのままの状態で置かれる場合が多い。が、中川の場合あまりにも荼毘に付すのが早いと思われた。


最後に中川は遺書らしいものは何も残していなかった点である。これも自殺する場合、通常では考えられないことであり、よって他殺説が今でも根強く指摘されている。


中川一郎→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E4%B8%80%E9%83%8E

179:名無しさん:2014/03/28(金)21:51:35 ID:MV1Mnm8xA
>>178
息子の酩酊会見と病死も頼む
180:名無しさん:2014/03/28(金)22:18:42 ID:UEGbaU1Ir
玉の井バラバラ殺人事件

昭和7年東京の私娼街そばにあるドブ川に男のバラバラにされた遺体が発見された事件。
「バラバラ殺人」という言葉が初めて使われた事件として有名である。

関東大震災後に発達した私娼街で玉の井という場所があり(現在の東向島)、ここはモグリの私娼街
として発達していた。永井荷風などが小説の舞台としていた場所である。ここにお歯黒ドブという
ヘドロで腐臭を放つドブ川が流れていた。生まれた嬰児を処置に困って捨てた遺体や動物の骸などが
良く上がるような川だった。

ある朝子供が誤ってこのどぶに下駄を落としてしまい、呉服商のおじさんが見かねて棒でつついて
取ってやろうとした。すると俄かに赤黒い血のようなものが広がり白地の布に紐でぐるぐる巻きに
縛ったものが浮き上がってきた。警察と一緒にこれを解いてみると果たして男の胴体の腹部であるこ
とが分かった。その後付近からさらに首、胸部、腰、手のない両腕、が発見された。手、足、胴の真
ん中部分はその後ドブさらいを徹底的に行ったものの発見されなかった。
その後解剖されて身体の特徴から肉体労働者であろうことは分かるもののそれ以上のことが分からず、
たちまち迷宮入りかと思われた。
ところが急転直下で本件は解決へ向かうこととなる。ある日現地視察に来た別の警察署の警官が
以前に見かけた浮浪者親子の親と非常に人相が似ており、その浮浪者が被害者ではないかと直感
した。この浮浪者のその後の消息をたどるとある建具職人の家に下宿していたことが分かり、この
下宿職人宅の主人を連行して追求した結果、殺害を認めるに至った。

結論として犯人宅の3人兄弟全員による犯行だった。殺害した原因は以下の通り。
犯人宅の長男は建具職人だが仕事がなく日給30銭、次男は春画などを書いては小遣い程度を稼ぐ状態、
長女が銀座のバーで働いて日給40銭。病床の母を養いつつ電気代も払えない状態だった。
ある日次男が件の被害者である浮浪者親子を見つけて連れて帰ってきた。この浮浪者は非常に口の
立つ男で故郷に財産があり助けてくれれば一儲けできるとウソを言って犯人宅へ連れ帰させたのだっ
た(実は犯人逮捕につながった浮浪者を尋問した警官もウソをつかれて汽車賃をくれてしまった)。
これに気を良くした犯人一家は、長女と浮浪者を夫婦同然にして故郷へ返して金策をしてくるように
送り出したのだった。ところが浮浪者の男は無一文で帰参し、故郷が小作争議で云々などと言い訳を
して一文も持ち帰らなかった。不審に思った次男は男の身元を調べて、実は無一文であることを知る
と激怒し家族で追い出したものの、逆に男は居座り一家に暴力をふるうようになった。春画を売るよう
な稼業をしていることから警察沙汰を恐れた家人はしばらく従うしかなくなってしまった。
しかし、いよいよ困窮を極めた一家は、邪魔になっている男を一家総出で始末しようということ
になり、長女が見張りをしている間に長男と次男がバットとスパナで滅多打ちにして殺した。
母と被害者の子がいない間に二日かけて死体を全員でバラバラにし、お歯黒ドブへ遺棄、他の部分は
長男の学校であった東京帝大工学部の使われていない校舎に隠したのだった。

最終的に長男は懲役8年、次男が懲役15年、長女は懲役6月執行猶予3年という判決だった。

なおこの事件の前後は大事件が頻発する騒然とした世情だった。第一次上海事変、熱海事件、
首なし娘事件、血盟団事件、満州国建国、五一五事件、ロス五輪での日本人選手の活躍、白木屋百貨
店火災、桜田門事件、矢作事件、坂田山心中事件と昭和史に残る事件が連発した。

玉の井バラバラ殺人事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E3%81%AE%E4%BA%95%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%90%E3%83%A9%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

181:名無しさん:2014/03/28(金)22:50:00 ID:UEGbaU1Ir
福笑い殺人事件

昭和30年東京八王子の飲み屋の女将が殺害された事件。
犯人は主犯格の少年と21歳の男の二人だったが、まれにみる凶悪な犯罪として未成年で且つ被害者
が一名、二名の共同正犯による実行という案件であるものの二名とも死刑となった。

八王子駅から離れたバラック街にある飲み屋にて、週末に手伝いに来た高校生の娘が店に明かりが
無いことを不審に思い、中に入ってみると店の中の3畳間の炬燵で母がうつぶせで寝ているのが
見えた。そのそばにはビールの空き瓶が二本、キャラメルの空き箱、ミカンの皮などが散乱していた。
布団をめくってみると母が目隠しをされた状態で血まみれの状態で首にはひもを巻き付けられて
絶命していた。

また預金通帳がないことに気づき、さらに布団をどけると福笑いののっぺらぼうの紙が現れた。
警察による現場検証で両足は胡坐をかいた状態になっており、右手を膝にあて、左手は胸の前に
ある状態となっていた。また盃が放置されていて、下手人は二人であろうことが推測された。後に
印鑑と預金証書、現金もなくなっていることが分かった。警察はすぐに銀行へ向かうものの、現金
はすでに引き出された後だった。
周辺の事情聴取により、銀行に金を下ろしに来た男と、前日店で鉢合わせた別の客の証言から犯人
の人相が割り出され、最終的に現場に残された指紋から窃盗などの常習者で前科のある少年が逮捕
され、さらに仲間の男も逮捕された。この二名は少年院で知り合った仲間だった。

犯行当日は被害者の店に小金があることを覚えていた少年が仲間の男を連れ出して、襲おうと計画
した。被害者に目隠しをして福笑いをやらせ、この間に紐で首を絞めつけてビール瓶で殴りつけた。
その後通帳と現金を奪い、次の晩は赤線で二人で遊んでいたのだった。

裁判では、犯人の反社会的性格を糾弾し、厚生の可能性は無く酌量の余地がないと断じ、主犯の少
年含め二名とも死刑判決。

福笑い殺人事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%AC%91%E3%81%84%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
※関連写真見つけられず
183:名無しさん:2014/03/28(金)23:40:44 ID:UEGbaU1Ir
上野消火器商一家殺害事件

昭和49年東京上野で消火器商を営んでいた一家四人とたまたまその場にいた一家の知り合いの
男の5名が惨殺された事件。
本件の特異なところは共犯の男が、全くこの一家とつながりを持たず、主犯の男との単なる”友情”
だけで犯罪に加担したところである。

一家は訪ねてきた親戚により発見された。血の海となっている現場は頭を鈍器で殴られ紐やコードで
首をしばりつけられ、浴槽に灯油がかけられた遺体が放り込まれている有様であった。
最初捜査員は一家心中を疑ったのだが、タンスがぶちまけられたり執拗な物色の跡を見るにつけ、
次第に強盗殺人かと思うようになった。しかしそれにしては殺害方法が異様なほど凄惨であると
見えた。現場検証をしているうちに、家人のものではないと思われる衣服があり、これには名前
が律儀にも記されていた。この遺留物によって同業者の工場で以前営業として働いていた男が
すぐに捜査線上に浮上した。さらにこの男以外の衣服も現場にあり、その衣服の特殊性からこれ
またすぐに別のとび職の男が浮上した。
指名手配から本当にあっさりとその日中に二人とも逮捕されてしまった。

主犯の男は、主犯の父とともに被害者一家の経営する消火器商でセールスを請け負っていた(社員
ではなく外注だった)。ところが、被害者の会社はのちに自社営業を行うようになり、犯人親子は
次々に得意先を失ってしまった。これに逆恨みをした犯人が、友人である共犯とともに本件を計画
したのだった。この共犯の男は、出生が似ていたことと、お互いがゲイであったことから強い友情
で結ばれていたようで(しかし体の関係はなかったようである)、主犯の男から本件の計画を持ち
こまれると二つ返事でOKしたのだった。
捜査員が動機を怨恨か物盗りかで判断しかねていたのは、動機がどちらもあったから、という結果
だった。犯行時二人はお互いを励まし合いながら5時間にわたり現場を荒らしたあと、主犯の男は
蒲田でゲイバーやホテルなどで使い果たしてしまった。

しかしながら共犯の男は主犯の男にくらべおとなしい性格であったため、その後の裁判などでも
なぜこのような凶悪な犯罪に加担してしまったのか、終始謎のままであった。
裁判は昭和54年に結審し二名とも死刑。主犯の男は、犯行に巻き込んでしまった共犯の男を減刑
するよう終始嘆願し、巻き添えにしてしまったことを最期まで嘆いていた。
共犯の男が結審の7年後に刑執行、その二年後に主犯の男が刑執行された。

上野消火器商一家殺人事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E6%B6%88%E7%81%AB%E5%99%A8%E5%95%86%E4%B8%80%E5%AE%B6%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
※関連画像なしです

186:名無しさん:2014/03/28(金)23:47:07 ID:cz2U1C2BR
雑談部分が伸びないね
皆あまり興味ないのかな?
まぁ黙々と読んでショックを受けてテンション下がる系の内容なんだけどね
187:名無しさん:2014/03/29(土)00:06:39 ID:ES04rPNZs
確かに。
興味がないわけじゃないんだろうけど、要は需要に対応してないってところかな。

そうするとギャラリーのリクエストに応える形にした方がいいのかな。
まだリクエスト有ったやつで上がってないのであるかな。
190:名無しさん:2014/03/29(土)01:30:54 ID:J6Rq1A9fz
北朝鮮による日本人拉致事件を忘れるなよ
191:名無しさん:2014/03/29(土)01:38:11 ID:nIibls2io
>>190
それ数多過ぎなうえに発覚したのが随分後になるから記事としては難しいんだよな
当時は単なる失踪だからなぁあれ
189:名無しさん:2014/03/29(土)00:39:49 ID:ES04rPNZs
金属バット殺人事件

昭和55年神奈川県で起きた当時成人にになったばかりの予備校生が両親を金属バットで殴殺した
非常に有名な事件。
本件は、当時の受験戦争の過熱化という世相と、舞台となったエリート一家との心証から起きた
悲劇であったとして大変な話題を呼んだ。しかし事件の背景としてのこの解釈は昨今は別の観点
から再検証されつつある。

犯人の男は、某東証一部上場企業の幹部の父、山口の有名酒造家の娘の母、早大生の兄のいる家
の次男だった。裁判時の精神鑑定で発達障害が認められ、子供の時分からあまり出来の良い子で
はなかった。しかしながら、中学高校となんとか進学校へ進めたものの、その後成績は下がる一
方で現役での合格はおろか、今でいうところのFランクラスの大学に進める程度の成績だった。
一度成績で両親に叱責された後、1日だけ大阪へ家出まがいにでかけて何もしないで帰ってきて
いる。
そうこうしている間に、予備校生になってからは親の財布からキャッシュカードを盗んでは小金
を下してサボるようなことを繰り返し、進学をあきらめて別の道に進みたいなどと思いついたよ
うに言っては両親の不興を買うありさまだった。
犯行当日、犯人がキャッシュカードを盗んでいたことを知った父親が激怒し、応接間で叱った後
に、更に怒りが増して自室へ退いた犯人の部屋へ乗り込んだところ、犯人は盗んだ金で買った
ウィスキーをラッパ飲みしている最中だった。父親は叫ぶように泥棒を置いておくわけにはいか
ないから出ていけ!と罵り、今まで犯人をかばってきた母親からついに突き放すような言葉を
頂戴するにあたり犯人の心が砕けた。

翌日、物盗りの仕業に見せかけるよう精いっぱいの偽装工作をした犯人は警察へ通報。駆けつけ
た警察は現場の惨状に息をのんだ。父親は寝室で頭蓋を割られて飛び散った血は天井まで達し、
母親は奥の八畳間で完全に破壊された頭から脳漿があたり一面に飛び散っていた。
その翌日、親類から追及を受けてあっさり自分が犯人であることを認め、親類が警察へ通報して
逮捕となった。

本件は裁判で犯人の責任能力が争われたが、責任能力そのものは認められたものの、精神が相当
に減弱している中でアルコールに酔った自己喪失の中での偶発的犯行と考えられ、更に逮捕後は
相応の悔悟の態度を見せており厚生の可能性ありと判断されて、懲役13年の実刑となった。
1審で控訴せず有罪が確定。収監された。

本件については、事件の背景が明らかになるにつれて受験戦争の弊害として、当時はそれを糾弾
する風潮へと向かっていくようになった。好景気になりつつある頃でもあった時代背景もそれに
合致したものとみられる。
しかし、冒頭にあるとおり、昨今では別の解釈が試みられている。本人は厳格な父に対して、
避難することのできる母親に対して拠り所を求めており、その母親から犯行直前に見捨てられた
態度を取られたことによって精神崩壊を起こしてしまったのではないかというものである。
なお犯人は現在刑期満了にて出所している。

神奈川金属バット両親殺害事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E9%87%91%E5%B1%9E%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%88%E4%B8%A1%E8%A6%AA%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

192:名無しさん:2014/03/29(土)01:38:31 ID:ES04rPNZs
アナタハン島事件

昭和20年から25年にかけて発生したとみられるマリアナ諸島アナタハン島でおきた大量に死者を
出した事件。本件は終戦直前から終戦後にかけてという期間と、日本の敗戦後にアメリカの信託
統治領となった地域特性から、権力の及ばない実質的な無法地帯で起きた非常に特異な事件で
ある。

アナタハン島にてコプラの生産を行っていた会社の社員夫婦の内、主な当事者となるA子、隣家
で会社の上司夫婦のうちの夫であるB夫は、運悪く当日ほかの日本人が出払っている中で、米軍の
空爆を受けてしまう。命からがらになんとか生きていけるだけの状況を確認した二人は更なる
災難に見舞われる。この爆撃により遭難した日本軍人や漁師などの31名の男性がアナタハン島に
上陸してきたのだ。この後、最低限の衣食住の環境しかない孤島で32人の男と1人の女の過酷な
サバイバルと肉欲の生活が始まった。
生活はほぼ男は全裸、A子は上半身裸の腰ミノ一つという状態で、男が狩りをおこなって、A子が
調理するということで何とか生き延びようとした(この間に米軍が日本の敗戦をしきりに告げて
来たものの誰一人信用しなかった)。
最初のうちは、みな生きるのに必死だったため性欲は抑えられていたが、ある程度慣れてくると
日本人の女は一人という状況で32人の男があからさまにA子を求めて対立するようになった。
またそれはB夫がA子の夫ではないことが知れ、更にヤシの実から酒を生成することに成功すると
いよいよ理性が保てなくなってきていた。
これを危険と察知したA子はB夫に助けを求める形で半ば済し崩し的に事実上の夫婦となった。
しかしそのうちB夫はA子を独占したいがために嫉妬深くなり暴力を働くようになった。これに
嫌気したA子はCと関係して駆け落ちまがいのことをして連れ戻されている(これまでの間に
二名の行方不明者を出している)。

 続く
193:名無しさん:2014/03/29(土)01:38:54 ID:ES04rPNZs
しかしこの後墜落した米B29の残骸を発見、同時に使用可能な二丁の拳銃を発見するにあたって
これを使用できるDとEが当然のようにA子を求めた。B夫は恐れおののいてA子をDとEに差出した。
そのうちDとEが諍いからEが拳銃で殺害され、更にA子にしつこく言い寄っていたFが殺害された。
ところが、なぜかDがそののちに不審死を遂げる。今度は拳銃をGが独占して所持、Gも当然の
ようにA子を独占し、すぐにB夫を殺害した。更にこの後にGが謎の死を遂げる。
これを受けてあまりの状況異常さから、その後合議で拳銃は海中に沈め、A子に夫を選んでもら
いその夫婦を邪魔しないと誓うことにした。A子はCを選び夫婦となった。
しかしこれもすべてはかりそめの約束となっていた。なぜならここに居る者すべてがすでに
文化的理性というものを無くしてしまっていたからである。拳銃が無くなった後も執拗に男た
ちはA子を追い立て回した。

A子は遂に我慢の限界に達し逃亡の上、米軍への投降を試みる。必死の思いで男たちから逃げ
おおせ、海岸で腰ミノ一枚で白い布を振り米艦艇に救出されたのだった。
この時すでに昭和25年。5年の月日が去っていた。

男たちは、A子に遅れること1年後に投降。
生き残った者はA子および男19名。12名が死亡または行方不明となった。

この事件はA子が帰国後、マスコミによって恰好のエサになり「アナタハンの毒婦」などと煽情
的に報道が過熱し大衆の好奇の目に大いにさらされることとなった。世間はアナタハンブームに
湧き、A子の写真まで売られた。A子は更に闇ブローカーのような男にだまされてストリップの
ステージに立ったり、インチキまがいの本件を題材にした映画に出演させられたりした。
A子は失意のうちに故郷へ帰って行った。
これにひきかえ男たちは特に何の咎めも受けることなく帰還している。

残念ながら戦後の混乱期の世情も相まってマスコミに翻弄され、本来帰国によって行われる
べきだった真相究明は行われることなく、時間と共に事件そのものも消え去ってしまった。

アナタハンの女王事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%BF%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%8E%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6

195:名無しさん:2014/03/29(土)02:06:26 ID:vZ6Ox2ihd
>>192
これA子結婚してたんだっけ
197:名無しさん:2014/03/29(土)02:42:21 ID:ES04rPNZs
>>195
爆撃を受けた時にはちゃんと夫がいたが、当日留守にしていた(異説もあって殺されたとされている文献もある)。

唯一の慰めは失意のうちに故郷に帰った後で良い旦那を見つけて、開店したたこ焼き屋が繁盛したことかな。
199:名無しさん:2014/03/29(土)03:10:50 ID:vZ6Ox2ihd
>>197
そう考えるとけっこう胸糞だな…
194:名無しさん:2014/03/29(土)02:05:50 ID:ES04rPNZs
弥彦神社圧死事故

昭和31年新潟県にある越後国一宮彌彦神社で発生した将棋倒しによる集団圧死事件。
死者124名重軽傷者77名。日本で近代に起きた群衆事故としては記録にある限りでは最大のものと思われる。

当日は年始参りで恒例の福餅まきが始まるのを今か今かと群衆が殺到している拝殿前で待機している状態
だった。福餅は縁起が良いとして当日参拝客の一番の目当てであった。年が明けた直後の0時10分頃、餅を
もらい終わった帰りの客と今から参拝する客で中央の石段付近で衝突が起き、双方からの荷重に耐えられ
なくなって玉垣が崩壊。これによって段上の参拝客が押し出されるようにして次々に石段下へ落下していき
折り重なって倒れることとなった。
当日は参拝客推定4万人に対して警備が16名しかいない上に多くがバス駐車場の交通整理に振り向けられて
しまい現場はほぼ無秩序状態だった。更に照明設備が整っていない状態で周囲が暗く状況が把握できなかっ
たことが拍車をかけて、最終的に状況が改善されるまでに30分から40分を要すこととなってしまったことも
被害の拡大に拍車をかけた。

この事故が起きた遠因として、同年は折からの豊作と公共交通の発達から当神社への参拝客が爆発的に増え
てしまったことが挙げられた。
本件は裁判によって警察の責任が認められ、県警本部長が引責辞任の上、幹部らが懲戒処分、また神社
の宮司及び権宮司も引責辞職した。

なお、現在は直接の原因となった年明けの餅まきそのものが行われておらず、境内も一方通行となって
改善された。

彌彦神社事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%8C%E5%BD%A6%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E4%BA%8B%E4%BB%B6

196:名無しさん:2014/03/29(土)02:40:41 ID:ES04rPNZs
横浜米軍機墜落事件

昭和52年横浜市にコントロールを失った米軍戦闘機が住宅地へ墜落した事故。
3名死亡(内一名は事件から4年以上後に死亡)6名負傷者を出す惨事となった。この事件は犠牲と
なった親子の悲劇的な最期から多くの関心が寄せられた。また本件の捜査に当たり日米地位協定
のあり方について議論を呼んだ。

当日厚木を飛び立った米艦載戦闘機は燃料満載の状態で火災が発生、すぐに乗員は脱出したもの
の機体は当然ながらコントロール不能となった。乗員は緑区の平地付近に着地したものの、
主を失った戦闘機はそのまま先の住宅地へと突っ込んでいき、周辺住宅を巻き込んで炎上した。
先に来ていた海自に遅れること1時間、米軍が現場へ到着し、日米地位協定を理由にして周辺住民
と警察をシャットアウトして米軍機の回収を優先させた。
この事故で9名が負傷、そのうち、3歳と1歳の兄弟の男の子が全身やけどとなって翌日に死亡した。
この母親も同様に全身やけどとなり、手術を繰り返しながら一時は一命を取り留めたものの、
精神的に憔悴し、半ば強制転院の形で精神病院へ転院した後に、実に事故から4年4か月後心因性
呼吸困難が原因で死亡した。
この悲劇の親子を祈念するために銅像の設置や、関連図書が多数出版されている。

なお本件の審判は米軍内で処理され、すべての案件が不起訴となって当該機に乗務していた二名は
本国へ帰還していった。

横浜米軍機墜落事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E6%A9%9F%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E4%BB%B6

200:名無しさん:2014/03/29(土)03:49:50 ID:ES04rPNZs
W3事件

昭和40年当時人気漫画家だった手塚治虫が少年マガジンで連載していた「W3(ワンダースリー)」
を少年サンデーへ連載誌を突如変更したという事件。
この事件は当事者の意図とは離れ、後の日本漫画史における重要な分岐点となった。

当初手塚率いる虫プロは新たな作品発表のために企画を行っていた。その企画がなぜか開始前に
ライバル会社から非常によく似たプロットでアニメやコミックの連載が始まるということが続いた。
このことがきっかけで手塚や虫プロ上層部は、虫プロ社内にスパイがいるものと確信し、疑念を
深めていく。
上記の状況から企画を何度も変更した新作の「W3」を折から依頼を受けていた講談社出版の週刊
少年マガジンで連載開始、同時にアニメの放映が決定することとなった。講談社にとっては悲願の
超人気作家の獲得ということで社内的に湧いた状態だったが、ところがこの決定と前後して事件が
発生する。それは、手塚が企画を盗まれたと考えていた漫画「宇宙少年ソラン」がほぼ同時に
連載を開始することとなったことが発覚したのだった。「ソラン」がマガジンで連載開始となった
理由は単純にスポンサーとの関係のためだったが、手塚は折からの状況から疑念を深め、
マガジン編集部に対して「ソラン」の連載中止を申し入れて猛烈に抗議した。しかしそうこうし
ている間に手塚は勝手に小学館へ出向き連載が開始されたばかりの「W3」の連載を7回目から
少年サンデーへ移籍すると決めてきてしまった。
講談社側は和解に向けて手はずを整えている最中に一方的に移籍を決められてしまい、手出しでき
なくなってしまった。
少年マガジンは本件に加えて、作者逮捕により看板漫画だった「8マン」の連載中止、同じく
看板だった「ハリスの旋風」の長期休載が重なりライバル誌に対して大きく水をあけられることと
なり、編集長が引責辞任する事態となった。

事件の直接の経緯は上記の通りだが、この後日本漫画界はこれを契機として流れが大きく変わって
行くこととなる。
手塚を失った少年マガジンは、今までの編集方針を大きく変更し、貸本漫画作家を大きく起用
する方針とした。その代表的な漫画家が梶原一騎、水木しげる、さいとう・たかをといった面々
である。単純なコミック調の漫画から、劇画調の漫画が多くを占めるようになり、これは読者
に歓迎を持って迎えられた。この後週刊少年マガジンの黄金時代が到来し、逆に手塚は低迷した。
この一連の流れは、日本における漫画の流れを手塚が得意としたストーリーもの、マガジンが
切り開いた劇画、もう一つの潮流である心理描写を生かした少女漫画というトレンドを作り出す
に至ったものと考えられる。本件は、日本の漫画が手塚を中心として制作されてきた”古臭い
マンガ”とは別の潮流を生み出すことになった非常に大きな転換点となることとなったと評価
されている。

なお、手塚は本件から9年を経過して「三つ目がとおる」を連載するまで講談社とは絶縁関係
になり、虫プロの経営にも大きな影を落とすこととなった。手塚はのちに本件について、講談
社側に大きな迷惑をかけてしまったと述べている。

W3事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/W3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

207:名無しさん:2014/03/29(土)08:45:03 ID:3q1y6r80h
>>200
ジャンプやチャンピオンに比べて何か大人が読むような絵柄に見えたのは
編集方針だったのかw
214:名無しさん:2014/03/29(土)10:29:46 ID:MtCSyx6ko
>>200
漫画の神様とか言われてるけど
自我の強さは半端ではなかったらしいからな
無国籍スナイパー、ゴルゴ13のヒットに対抗して
命を救う無免許医、ブラックジャックで対抗とかな
212:名無しさん:2014/03/29(土)10:21:43 ID:LW3LZ5Bbj
袴田事件

袴田事件は、1966年(昭和41年)に静岡県清水市で発生した強盗殺人放火事件、およびその裁判で死刑が確定していた袴田巖元死刑囚が冤罪を訴え2014年3月27日に死刑及び拘置の執行停止並びに裁判の再審が決定(未確定)された事件。日本弁護士連合会が支援する再審事件である。

1966年6月30日、「有限会社王こがね味噌橋本藤作商店」専務の自宅が放火された。焼跡から専務、妻、次女、長男の計4人の他殺死体が発見される。一家の中では別棟に寝ていた長女が唯一生き残った。

警察はすぐさま捜査を開始する。静岡県清水警察署が味噌製造工場および工場内従業員寮を捜索し、当時「こがね味噌」の従業員で元プロボクサーの袴田巖の部屋から極微量の血痕が付着したパジャマを押収した。

そして1966年8月18日、静岡県警察が袴田を強盗殺人、放火、窃盗容疑で逮捕した。


袴田への取調べは過酷をきわめ炎天下で平均12時間、最長17時間にも及んだ。さらに取調べ室に便器を持ち込み、取調官の前で垂れ流しにさせる等した。

睡眠時も酒浸りの泥酔者の隣の部屋にわざと収容させ、その泥酔者にわざと大声を上げさせる等して一切の安眠もさせなかった。そして勾留期限がせまってくると取調べはさらに過酷をきわめ、朝、昼、深夜問わず2、3人がかりで棍棒で殴る蹴るの取調べになっていき袴田は勾留期限3日前に自供した。

取調担当の刑事達も当初は3、4人だったのが後に10人近くになっている。

これらの違法行為については次々と冤罪を作り上げた紅林麻雄警部人脈の関与があったとも言われている。


そして1966年9月9日、静岡地検が強盗殺人罪、放火罪、窃盗罪で袴田を起訴し、1968年9月11日、静岡地裁が死刑判決。

1980年12月12日、最高裁が判決訂正申立棄却決定送達。死刑が確定する。


しかし弁護団や袴田を知る議員などはこれを正しい判決ではない。冤罪事件だ。と確信し、何度も再審を要求してきた。

その結果2011年8月に第二次再審請求審において静岡地裁は事件当日にはいていたとされるズボンの他、5点の衣類の再鑑定をすることを決定した。

再鑑定の結果次第では再審の可能性があるとされた。


そして遂に2014年3月27日、静岡地裁が再審開始と死刑及び拘置の執行停止を決定した。袴田は同日午後に東京拘置所から釈放された。

静岡地検は東京高裁に再審開始について即時抗告、拘置停止について抗告を申し立てた。


袴田は30歳で逮捕されて以来45年以上にわたり拘束され(ギネス世界記録、2014年3月27日まで東京拘置所に収監)死刑確定後は精神に異常を来しはじめ、親族・弁護団との面会にも応じない期間が長く続いた。

現在は面会には応じるものの拘禁反応の影響による不可解な発言が多く、特に事件や再審準備などの裁判の話題については全くコミュニケーションが取れなくなっている。

このため2009年3月2日より袴田の姉が保佐人となっている他、袴田は近年獄中にて拘禁反応に加えて糖尿病も患っている事が判明している。


袴田事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%B4%E7%94%B0%E4%BA%8B%E4%BB%B6

216:名無しさん:2014/03/29(土)10:47:21 ID:vISkYzgK5
>>212
袴田さんは本当に気の毒だ…
俺の歳より長く刑務所暮らしだなんて
222:名無しさん:2014/03/29(土)14:55:03 ID:nIibls2io
>>216
冤罪事件ってさ、偉い人を守るために仕組まれた冤罪ってのも数あるんだろうな
そう考えると実に恐ろしいよな
でも狭山事件に関しては個人的には未だ何か隠されてると感じる。隠し事が有るように思う
217:名無しさん:2014/03/29(土)13:21:49 ID:ES04rPNZs
名古屋妊婦殺人事件

昭和63年に愛知県名古屋市で起きた妊婦が残忍な方法で殺害された事件。
未解決で公訴時効が成立している。

事件の概要は以下の通り。
当日午後3時頃、いつ陣痛が来てもおかしくない状態で被害者の女性は在宅していた。当日は
被害者宅が副業で営んでいたネットワークビジネスの顧客を一人応対しており、その際に出した
イチゴの空き容器が炬燵の上に置かれたままだった。
犯人は何らかの方法で家に忍び込み、被害者を炬燵のコードで絞殺、この後異常な行動に出た。
被害者の臨月状態の腹を下腹部から胸部にかけて切り裂き、生きたままの嬰児を取り出した。
へその緒を乱暴に引きちぎったのちに、なぜか家の固定電話を本来赤ん坊がいるはずの部分へ
入れ、ついでにミッキーマウスのキーホルダーを入れて腹を閉じた。
夕刻に帰宅した主人(帰宅前に電話した際に電話に出ない状況を不審に思っていた)が、家の
異常に気づき奥から弱弱しく泣くかすかな声に誘導されて犯行のあった部屋に入った。この際
は主人は異常分娩だと考えたようで、仰向けに横になっている妻を起こそうとした。起こして
見ると後ろ手に縛られた状態で冷たくなっていることに気づき初めて殺害されたものと分かった
状態だった。すぐに警察に電話しようにもいつもの場所に電話がなく、致し方なく階下の住人
に助けを求めて警察を呼んだ。

警察の初期捜査は、職場で仕事をしているという確実なアリバイがあるはずの夫が犯人である
ものと決めつけ(夫の行動が冷静すぎたところがその心証を深めてしまった)てしまい、その
後の聞き込み調査で多数の目撃証言のある不審者の存在に集中されなかった。
犯行の異常性からいろいろな推論が出たが、迷宮入り。

奇跡的に生き残った胎内にいた赤ちゃんはその後世間の好奇の
目にさらされて夫ともに国外へ移住した。

名古屋妊婦切り裂き殺人事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%A6%8A%E5%A9%A6%E5%88%87%E3%82%8A%E8%A3%82%E3%81%8D%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

219:名無しさん:2014/03/29(土)13:58:02 ID:dTTgs1Tfq
>>218
名古屋妊婦事件おっかねえなあ…
赤ちゃんが生きてて本当に良かった
激動の時代「昭和」の様々な事件
引用元:http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1395926269
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