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激動の時代「昭和」の様々な事件 Part3


126:名無しさん:2014/03/28(金)11:25:29 ID:phavDwFpi
八海事件

八海事件は1951年(昭和26年)に山口県熊毛郡麻郷村八海で発生した強盗殺人事件。

この事件における警察の強引な捜査のやり方は後に大きく問題視されることとなった。


1951年1月24日、山口県熊毛郡麻郷村八海で早川惣兵衛さん夫婦が殺され、現金約1万7000円が奪われた。


近くに住む青年・吉岡晃が逮捕され当初単独犯行を自供したが、やがて「仲間4人と5人でやった」と供述を一転させた。


嘘の自白により逮捕された阿藤周平さん(当時24歳)ら4人は厳しい取調べに吉岡の供述に合わせる自白をしてしまう。


裁判では1審、2審と阿藤さんに死刑、他は無期懲役、懲役12~15年という有罪判決が下された。


ところがその後、冤罪を確信した弁護士らの尽力により事件発生から17年後の1968年10月25日になって阿藤さんらはようやく最高裁から無罪判決を受けた。


判決後、阿藤さんらは取材記者に対して「本当に長かった。僕はこれでいいんです。自分たちの無実が晴れればそれで良いんです」と語った。


八海事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

127:名無しさん:2014/03/28(金)11:37:40 ID:phavDwFpi
血のメーデー事件

血のメーデー事件は1952年(昭和27年)5月1日に東京の皇居外苑で発生した、デモ隊と警察部隊とが衝突した騒乱事件。事件は一部の左翼団体が暴力革命準備の実践の一環として行われたものとも。戦後の学生運動で初の死者を出した。


1952年5月1日、この日の第23回メーデーで参加したデモ隊が使用不許可とされていた皇居前広場(人民広場)に突入し、警官隊と衝突。2人が死亡した。

※メーデー・・・・毎年5月1日に行われる国際的な労働者の祭典。1886年5月1日、米国で行われた8時間労働制要求のゼネストとデモが発端となった。89年の第二インターナショナル創立大会で決定し、90年から挙行。日本では大正9年(1920)に第一回が行われ、昭和11年(1936)以降禁止されたが、同21年復活。労働祭。五月祭。

この日行進を行ったデモ隊の内、日比谷公園で解散したデモ隊の一部はその中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人や日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出て、交差点における警察官の阻止を突破して北に向いその途中で駐留米国軍人の自動車十数台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら無許可デモ行進を続けた。


そして馬場先門を警備中の約30名の警察官による警戒線も突破して使用許可を受けていなかった皇居前広場になだれ込んだ。


これに対し警視庁は各方面予備隊に出動を命じ、デモ隊に応戦しようとしたがデモ隊の苛烈な攻撃に次第に耐えきれなくなりやむを得ず拳銃を発砲する事態となった。


デモ隊・警察部隊両者とも激しくぶつかり合い、流血の大惨事となった。


血のメーデー事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%BC%E4%BA%8B%E4%BB%B6







129:名無しさん:2014/03/28(金)11:58:37 ID:phavDwFpi
金嬉老事件

金嬉老事件は1968年(昭和43年)2月20日に3在日韓国人二世の金嬉老(キム・ヒロ)が犯した殺人を発端とする監禁事件。寸又峡事件とも呼ばれる。いわゆる劇場型犯罪の最初のケース。


1968年2月20日夜、静岡県清水市のクラブで金嬉老(当時39歳)が、知人2人を射殺。そのまま逃亡した。


金はその足で寸又峡温泉の旅館「ふじみや」に向かい、旅館の一家と客を人質にとり篭城した。



金嬉老事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AC%89%E8%80%81%E4%BA%8B%E4%BB%B6

131:名無しさん:2014/03/28(金)12:06:06 ID:Madjd9DMi
ここまで阿部定事件なし
133:名無しさん:2014/03/28(金)12:19:32 ID:XI5dHpHIN
冤罪ガーがうるさい昨今だけど、そんな人権屋のせいで新たな犠牲者が出た事件がある
冤罪のヒーローが犯した殺人事件だけど、何故かwikiはない

「首都圏 女性連続殺人事件」または「足立区首なし殺人事件」で検索
134:名無しさん:2014/03/28(金)12:22:25 ID:UEGbaU1Ir
横須賀線電車爆破事件

昭和48年国鉄横須賀線大船駅付近を走行中の列車内で発生した爆弾事件。1名死亡14名重軽傷。

犯人は大工の男で、動機は振られた女がデートの際によく利用していた横須賀線に時限爆弾をセットした
という単純なものだった。捜査は爆発物に使用された火薬が猟銃用の特殊な弾薬であることと、梱包に使用
していた新聞紙と土産物の箱から犯人を特定した。
犯人は裁判時に有名な草加次郎事件を持ち出し、草加次郎さえいなければこんな事件は起こさなかった、
と嘯いた。その後、犯人は死刑判決を受けたのちに信頼を寄せた牧師に従いキリスト教の洗礼を受け、歌人
となってさかんに短歌をキリスト教関係誌に投稿していた。
犯人の刑執行後20年の後、遺族によりその歌集が出版された。

本件はまた、前年に発生した山陽電鉄爆破事件や、本件直前に警視庁刑事部あてに届いた脅迫状(いずれも
本件とは無関係)から広範な捜査網を敷くに至ったが、発生当時世間は騒然とした。

なおこの本件は警察庁広域重要指定事件に指定された事件としては、唯一単独案件で指定されたものである。

横須賀線電車爆破事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E9%A0%88%E8%B3%80%E7%B7%9A%E9%9B%BB%E8%BB%8A%E7%88%86%E7%A0%B4%E4%BA%8B%E4%BB%B6

135:名無しさん:2014/03/28(金)12:42:22 ID:UEGbaU1Ir
福井地震

昭和23年6月28日16時過ぎに発生した福井県丸岡町付近を震源地としたM7.1の超大型の都市直下型地震。
死者行方不明者3769名 負傷者22203名。被害規模は関東大震災、阪神淡路大震災、東日本大震災に並
ぶ日本災害史上最大規模のもの。特に震源となった福井市および坂井郡では人口の1%超が死亡すると
いう日本近代史に例を見ない大きなものとなった。

特に被害が多かったのは地盤の弱い福井平野で、且つ戦後で基礎もままらないバラックのような建物
が林立する地域に人口が集中してしまったことが人的被害を拡大させたものと思われる。本件は戦後
の混乱期であったこともあり復旧活動は困難を極めた。災害ボランティアが東京に向けて送った追加
救援要請は「被害甚大。衣食携行、決死の覚悟で来い」という悲壮なものであった。

当時福井市は終戦直前に起きた福井大空襲、福井地震直後に起きた集中豪雨による九頭竜川堤防決壊
という三度の壊滅的被害を受け再起不能とまで言われたが、そこから見事の復興し「不死鳥の町」を
自称するに至った。

なお、本件を契機として気象庁は震度階級に「震度7(激震)」を追加した。また建築基準法には
地域別の設計震度が導入されることとなった。

福井地震→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E4%BA%95%E5%9C%B0%E9%9C%87

136:名無しさん:2014/03/28(金)12:46:10 ID:phavDwFpi
東大安田講堂事件

東大安田講堂事件は学生の自発的組織である全学共闘会議(全共闘)および新左翼の学生が、東京大学本郷キャンパス安田講堂を占拠していた事件と、大学から依頼を受けた警視庁が1969(昭和44年)年1月18日から1月19日に封鎖解除を行った事件。東大安田講堂攻防戦ともいう。


1960年代後半、ベトナム戦争が激化していたことや1970年で期限の切れる日米安全保障条約の自動延長を阻止・廃棄を目指す動きが左派陣営で起きていたことが引き金となり学生によるベトナム反戦運動・第二次反安保闘争が活発化した。


それと時を同じくして高度経済成長の中、全国の国公立・私立大学においてはベビーブーム世代が大量に入学する一方で時に権威主義的で旧態依然とした大学運営がみられた。


これに対して学生側は授業料値上げ反対・学園民主化などを求め各大学で結成された全共闘や、それに呼応した新左翼の学生が闘争を展開する大学紛争(大学闘争)が起こった。


その中で東京大学における闘争は1968年(昭和43年)1月に、東大・医学部の学生が「インターン制度に代わる登録医制度」に反対したことから始まる。


医学部の学生達は、この制度改定に反対するため無期限ストを実施。さらに、東大・医局長を缶詰状態にして制度改定反対を申し入れた。


しかし東大・医学部は、この缶詰事件で17人の学生の処分を発表。ところが、処分発表された1人は、缶詰事件に関与していないことがその後判明し、学生側と東大側で紛争の火種となった。


この処分撤回を要求する学生側と東大側で平行線が続き、遂に6月に反日共系の学生たちが、東大のシンボルである安田講堂を不法占拠した。


これに対して、大河内東大総長は警察に出動要請。機動隊12000人が大学構内に入り、不法占拠を排除したがこれに対し学生の反発が強まり安田講堂がバリケード封鎖された。


そして1969年(昭和44年)1月18日、東京大学・加藤一郎大学総長代行は、東大・安田講堂、その他の教室を不法占拠している全学共闘会議の学生達を排除するため、警察に出動要請を行った。この要請に警察は、8500人の機動隊を派遣し35時間の攻防戦を展開した。


こうして俗にいう「安田講堂攻防戦」が開始させられた。








137:名無しさん:2014/03/28(金)13:14:46 ID:UEGbaU1Ir
「ひかりごけ」事件

昭和19年に起きた北海道の知床岬で起きた死体損壊事件。
日本において法廷で食人が罪であるか、を初めて裁いた事件である。

昭和18年12月根室港を発った7名の船員を乗せた軍徴用船は翌日に知床岬沖で大時化に遭いそのまま消息を絶った。
その後同船は不明のまま真冬の時季でもあり絶望とみられていた。ところが翌19年2月に羅臼町に住む漁民の家に一人の
男が現れた。その男は不明船の船長で、この2か月の間に流れ着いた岸の番屋にあったわずかな食糧とアザラシを捕って
食べて凌いでいたと述べた。漁民一家は真冬の知床の厳しさを知っていたため驚愕し、たちまち本件は巷間の知るところ
となって時節柄「不死身の神兵」などと祭り上げられた。
しかし同年5月に漁業を再開に来た漁民(不明船船長が寒さを凌いだという番屋の持ち主)が、番屋近く岩場にあった
リンゴ箱におさめられた白骨死体を発見した。この死体は人間の表皮や頭部を割られて脳漿が空になった頭蓋、肉が
ナイフのようなものできれいに切り取られた骨等がいっぱいに詰まっていた。この漁民は人肉食を疑い警察に届け出た。
警察は現場検証後、死体を解体して食したことは明らかとして、船長を殺人、死体損壊、遺棄容疑で逮捕するに至った。

逮捕された船長はあっさりと人肉食を認めたものの殺人については否定した。
事の経緯としては、遭難後に船から避難する為に岬に降り立ったものの折からの極寒と雪のために船長ともう一人の船員
以外とはぐれた。件の番屋を見つけてここで風よけはできたものの食糧は岸に流れ着く昆布やワカメなどしかなく、これ
を番屋に残されていた少量の味噌で味噌汁を作ってしのいでいた。やがて遭難から45日を経過したのちもう一人の船員
が体力消耗のため死亡した。船長がその船員の肉を食したのはその二日後、番屋を脱出して漁民一家にたどりついたのは
その二週間後だった。

なお、日本には食人を罰する規定はない。
そのため裁判では弁護人は無罪を主張した。また極限状態に置かれた船長が人肉を食さなければ死に至ると考えて食人を
行ったとすれば死体損壊罪についても、いわゆる緊急避難にあたると考えられ違法性が無いため無罪を主張した。
結局判決としては、犯人は食人を侵さなければ必ず死に至る、ましてやそれが同胞のものであるのであればなおのこと社会
生活の文化秩序維持の精神に悖るとして、有罪判決となった。懲役1年。

本件を有名にしたのは、武田泰淳が本件を元に執筆した小説戯曲「ひかりごけ」から、ひかりごけ事件といわれるのが
いまは一般的である。

ひかりごけ事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%81%94%E3%81%91%E4%BA%8B%E4%BB%B6

140:名無しさん:2014/03/28(金)14:22:44 ID:phavDwFpi
福岡大ワンダーフォーゲル部・ヒグマ襲撃事件

福岡大ワンダーフォーゲル部・ヒグマ襲撃事件は1970年(昭和45年)7月、日高山脈を縦走せんとしていた福岡大学ワンゲル部5名が執拗にヒグマに襲われ、3人が次々と命を落としていった事件。


1970年7月、福岡大学ワンダーフォーゲル部員の5人パーティーが日高山脈の芽室岳からペテガリ岳までの日高山系縦走すべく入山した。


パーティーは竹末一敏さん(リーダー)、滝俊二さん(サブリーダー)、興梠盛男さん、西井義春さん、河原吉孝さんの五人だった。


7月25日、中間地点のカムイエクウチカウシ山にさしかかっていた5人だったが大幅に予定が遅れていたため翌日の登頂後に下山することにし「九ノ沢カール」という箇所でテントを張った。


しかしここでヒグマからの最初の襲撃を受けた。


発見したのは竹末さんでテントから7mほど離れたところにヒグマはおり、当初パーティーは誰もヒグマを怖がっておらずしばらく興味本位で見ていたが、やがてヒグマの方から近づいてきてテントの外にあった登山用のザックを漁り中の食料を食べ始めた。


発見してから30分ほど経った頃である。



メンバーはラジオの音量を上げ、火を点し食器を打ち鳴らしてなんとかヒグマを追い払うことに成功した。


しかし午後9時頃、疲れて眠っていたパーティーはヒグマの鼻息で目を覚ますこととなる。ヒグマはテントにこぶし大の穴を開けた後、去って行った。これが2度目の襲撃で、メンバーは2人ずつ2時間交替で見張りを立てることにした。


その後もヒグマは執拗に五人をつけ回し、結果的に三人のメンバーを殺害。


三人の遺体は顔半分がなかったり腹部から腸が引きずり出されるなど、目を背けたくなる光景だったそうである。


福岡大ワンダーフォーゲル部・ヒグマ襲撃事件→wikiは無し

141:名無しさん:2014/03/28(金)14:25:53 ID:cz2U1C2BR
羆きたー!!!
これ怖いよなぁ
143:名無しさん:2014/03/28(金)14:42:02 ID:OJtw8H2g7
よど号出た?
144:名無しさん:2014/03/28(金)14:43:31 ID:phavDwFpi
>>143
恐らくまだ出てないですね
151:名無しさん:2014/03/28(金)15:15:41 ID:phavDwFpi
よど号ハイジャック事件

よど号ハイジャック事件は1970年(昭和45年)3月31日に共産主義者同盟赤軍派が起こした日本航空便ハイジャック事件。日本における最初のハイジャック事件。


1970年3月31日、羽田空港発板付空港(現福岡空港)行きの日本航空351便・通称「よど号」が赤軍派を名乗る9人によってハイジャックされた。


犯人グループは朝鮮民主主義人民共和国へ亡命する意思を示し、同国に向かうよう要求した。


よど号は福岡空港と韓国の金浦国際空港での2回の着陸を経た後、4月3日に北朝鮮の美林飛行場に到着。犯人グループはそのまま亡命した。


かねてより赤軍派は、国内での非合法闘争の継続には後方基地としての海外のベースが必要であると考え、海外にメンバーを送り込む計画を立てていた。


ところが、1970年3月15日に赤軍派議長の塩見孝也が逮捕されてしまう。


逮捕された際、塩見は「H・J」(High Jackの意)と書かれたハイジャック計画に関するメモを所持していたが、当時の公安警察はメモの「H・J」がハイジャックを意味するものだとは気付かなかった。



よど号ハイジャック事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%88%E3%81%A9%E5%8F%B7%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6

運航乗務員を除く乗員と乗客は福岡とソウルで順次解放されたものの、運輸政務次官山村新治郎が人質の身代わりに搭乗し、運航乗務員と共に北朝鮮まで同行した後に帰国した。

153:名無しさん:2014/03/28(金)15:29:17 ID:phavDwFpi
昭和電工事件

昭和電工事件は1948年(昭和23年)におきた贈収賄汚職事件。昭電疑獄とも。


復興資金として復興金融金庫からの融資を得るために、大手化学工業会社・昭和電工の日野原節三社長が行った政府高官や政府金融機関幹部に対する贈収賄事件である。1948年6月に発覚。


疑惑に先に手を付けたのは警察だった。警察は内定を進めていくうちに政界がらみの大きな汚職事件になると確信し政府がつぶれる危機すら抱いたが、それでも捜査を進めた。


そして捜査の過程でGHQ職員らも金を受け取っている、政・財・GHQの三つ巴の構造汚職であることを掴む。


このためこれを察知したGHQは圧力をかけ、捜査から警察を締め出しGHQのいうがままに動く検察主導で行わせるよう工作。そこで秦野は一策を講じ、クリスチャン・サイエンス・モニターの記者であったゴードン・ウォーカーを呼びGHQ関係者の名前がずらりと並んだ汚職容疑者リストをすべて彼に渡した。


ゴードン・ウォーカーはさっそくGHQを訪れ「GHQは、日本の警察の邪魔をするのか」といい、そのリストを見せた。するとGHQの警察への干渉はぴたりと止まった。


うまくいったと思った直後、ゴードン・ウォーカーはなんと突然朝鮮半島へ転任にされてしまう。


また秦野と藤田刑事部長の2人も突如転任となり、その後捜査は警察から検察へ移ることになった。


検察の捜査ではGHQへの疑惑は全く出なかった。


しかし大蔵官僚・福田赳夫(後の首相)や野党・民主自由党の重鎮・大野伴睦(後の自由民主党副総裁)の逮捕に始まり、政府高官や閣僚の逮捕に及ぶなど波紋は確実に広がった。


また栗栖赳夫経済安定本部総務長官、西尾末広前副総理が検挙され芦田内閣の総辞職をもたらした。


その後前首相であった芦田自身も逮捕されたが裁判では栗栖以外の政治家は無罪となった。



昭和電工事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E9%9B%BB%E5%B7%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B6

154:名無しさん:2014/03/28(金)15:34:15 ID:i0aCHoX1E
>>153
やっぱり崩壊直後に新しく創設されたこういう組織の話は面白いな
腐敗しきってると思いきや組織全体が若いから正義に向かって動こうとするの
155:名無しさん:2014/03/28(金)15:39:13 ID:UEGbaU1Ir
全日空機雫石衝突事故

昭和46年岩手県雫石町上空で発生した、練習中の自衛隊戦闘機F-86Fと全日空58便千歳発羽田行の空中衝突事故。
いわゆる日航123便事故が発生するまでは日本国内最悪の航空事故で、事故現場は凄惨を極めた。
全日空側の乗員乗客162名全員が死亡、自衛隊機側パイロット1名は脱出に成功して無事だった。

事故は速度的に速い自衛隊機が、当日ルートを逸脱していたと思われる全日空機に対して適切な回避行動を取る
ことができず、さらに自衛隊機を視認していたにもかかわらず回避行動を取らなかった双方のミスが重なり、
自衛隊機が全日空機尾翼を切り取る形で接触し、双方そのまま墜落した。
衝突から10数秒後に全日空機は高度8500メートルから5000メートル付近まで急降下したのち音速の壁を越えて、
ソニックブームを起こして空中で圧壊し、そのままバラバラになった機体とともに乗客乗員は雫石町へ墜落
した。ソニックブームが起きた際、町の住民や農作業中の者が、折からの好天もあって空に一度きれいに花火
のような爆発があったのを見た後、きらきらしたものがたくさん降ってくることに好奇心を駆り立てられて
わざわざこれを見物しに出てきて、空から悲鳴とともに高速で降ってくる阿鼻叫喚の絵図を見ることとなった。
特に小学校校庭や近くの畑、そして現在慰霊の森のある山には多数の遺体が墜落することとなり、見るに堪え
ない凄惨な状況となった。また時季が夏であったため、状況から遺体のすべてを回収できるはずもなく、夜に
なるとリンが燃えて青白い炎がしばらく沸き立ったという。
なお幸いなことに墜落物体による被害者は、家にランディングギアが落ちてきたお婆さん一人が負傷しただけ
だった。

本件は事故原因がどちらにあるかでその後も大きく世間をゆるがした。
また本件のその後の影響として、自衛隊訓練空域と民間航空路のエリアを完全に分離すること、空中衝突防止
装置の開発と搭載の義務化、自衛隊機を含めた航空管制区域内での義務適用厳格化が行われた。

全日空機雫石衝突事故→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E6%97%A5%E7%A9%BA%E6%A9%9F%E9%9B%AB%E7%9F%B3%E8%A1%9D%E7%AA%81%E4%BA%8B%E6%95%85

156:名無しさん:2014/03/28(金)15:47:17 ID:phavDwFpi
下山事件

下山事件は1949年(昭和24年)7月5日朝、国鉄総裁下山定則が出勤途中に失踪、翌日未明に死体となって発見された事件。

事件発生直後から自殺説・他殺説が入り乱れ、警視庁は公式の捜査結果を発表することなく本捜査を打ち切った。また下山事件から約1ヵ月の間に国鉄に関連した三鷹事件、松川事件が相次いで発生し、三事件を合わせて「国鉄三大ミステリー事件」と呼ぶ。


1949年6月1日に発足した日本国有鉄道(国鉄)の初代総裁に就任したばかりの下山定則は7月5日朝、午前8時20分頃に大田区上池台の自宅を公用車で出た。そして出勤途中に運転手に日本橋の三越に行くよう指示した。


三越に到着したものの開店前だったため一旦国鉄本社のある東京駅前に行って千代田銀行(三菱銀行、現在の三菱東京UFJ銀行)に立ち寄るなどした後再度三越に戻った。


そして午前9時37分頃公用車から降りた下山は「五分くらいだから待ってくれ」と運転手に告げ、急ぎ足で三越に入りそのまま消息を絶った。


普段下山は午前9時前には国鉄本社に出勤し、毎朝秘書が玄関で出迎えていたが失踪当日は国鉄の人員整理をめぐり緊張した状況にあり午前9時には重要な局長会議が予定されていたため、自宅に確認したところ「普段通り公用車で出た」との回答に国鉄庁内は大騒ぎとなり、警察に連絡。失踪事件として捜査が開始された。


そして翌7月6日午前0時30分過ぎに足立区綾瀬の国鉄常磐線北千住駅 - 綾瀬駅間で汽車に轢断された下山の遺体が発見されるに至る。


捜査は難航し、結局1949年(昭和24年)12月31日には「下山事件特別捜査本部」は解散となり事件は一応の終幕を迎えた。



下山事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

157:名無しさん:2014/03/28(金)15:57:51 ID:lwJPlDlYa
クアラルンプール日本赤軍大使館人質立てこもり事件とかもあったですわ
159:名無しさん:2014/03/28(金)16:10:28 ID:phavDwFpi
クアラルンプール事件

クアラルンプール事件は1975年(昭和50年)に日本赤軍が起こしたテロ事件。


1975年8月4日11:00(日本時間12:30)、マレーシアのクアラルンプールAIAビル9階アメリカ大使館領事部で武装した男らが乱射、警官1人が射殺された。


男らは立て篭もり、ロバート・ステビンズ領事ら50人を人質にして9階の出入り口を封鎖、スウェーデン大使館も占拠しフレデリック・ベルエン・ストラレ代理大使らを人質にした。


犯人は日本赤軍で、日本政府に逮捕されていた7人の釈放を要求した。


折しも三木首相は訪米中で井出官房長官が福田副首相らと8月4日19:00から会議を開き、深夜にマレーシア政府に7人の釈放を伝えた。



クアラルンプール事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

160:名無しさん:2014/03/28(金)16:17:03 ID:UEGbaU1Ir
第四艦隊事件

昭和10年岩手県東沖合で発生した日本海軍第四艦隊演習中での大規模な海難事故。
演習に参加していた大部分の艦艇が損傷し、駆逐艦二隻は艦首部を喪失するという類を見ない損害を出した。
殉職者54名 損害艦艇 空母中破2重巡小破1軽巡小破1駆逐艦大破6小破多数

事件は第一、第二艦隊との合同演習のさなかに発生した。折からの荒天(台風だった)ではあったものの、
荒天時の訓練も有意義であるとの判断に加えて、横須賀沖での伏見宮ご観閲による演習を控えていたため、
演習は強行された。主力部隊は960ヘクトパスカルの台風の中心部に入り波高20mにも上る大波を受けて、
艦艇の大部分がその直撃を受けた。被害として転覆、沈没は免れたものの、特に特型と呼ばれる駆逐艦二隻
は艦首を切断するという前代未聞の損傷をだし(これまで戦闘以外での航海中に船体切断が起きた軍艦艇は、
就役直後のイギリス駆逐艦1隻だけであった。
その後の調査で、特型駆逐艦については強度不足が発覚し以前の検査で強度的に問題がないとされた艦艇
すべてを再検査する事態となった。また前年に同様の理由で転覆した水雷艇友鶴の件もあり、徹底的に安全
確認がされることとなった。このような被害が出た主な理由としては、ロンドン海軍条約で定められた規定
内限界まで、ほとんど全艦艇を艤装していることと、当時はまだ技術的に未熟だったが資材不足により多用
されていた溶接による接合部が主な問題点だった。

本件は起きた問題の大きさから国民には隠匿された。しかし造船技術として、必須の部分には枯れた技術を
採用すること、溶接技術の更なる改良発展を続けることとなった。
戦後日本が造船王国として世界に君臨する遠因として本件を契機とみる向きは多い。

第四艦隊事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E8%89%A6%E9%9A%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6

162:名無しさん:2014/03/28(金)17:09:39 ID:UEGbaU1Ir
死のう団

昭和8年に起きた「日蓮会殉教衆青年党」(通称「死のう団」)なる結社による一連の騒擾事件。
主に集団で「死のう死のう死のう」などと叫びながら行進を続けたためにデモ隊員が逮捕された。
この事件はその後特高による宗教団体への弾圧が約4年半に及び、最後に盟主が病死したのち、
後追いで会員が自殺を遂げて終焉した。

事件にかかわった「日蓮会」は既存の仏教の堕落に絶望していた盟主である男が起こした新宗教。
死のう団はその日蓮会の青年部(これも日蓮会内部での軋轢により生まれた一組織だった)に
属していた者たちが作った結社だった。
曰く法華経から「不惜身命」を行動規範の柱とし、以下を血判で宣言するに至る。
我が祖国の為めに、死なう!!!
我が主義の為めに、死なう!!!
我が宗教の為めに、死なう!!!
我が盟主の為めに、死なう!!!
我が同志の為めに、死なう!!! 日蓮会青年部

昭和8年夏に不帰の旅路と称して日蓮会は「殉教千里行」なるものを決行した。鎌倉鶴岡八幡宮で
祈願したあとひたすらに「死のう死のう死のう」などと叫びながら練り歩く白装束の集団は周辺
住民から奇異の目で見られた。その日横浜と鎌倉の境である朝比奈の山で野宿する予定だった
ところへ特高警察が急襲し、全員を逮捕した。団員はただの取り調べ程度と考えていたが、実際
には違っており折からの日蓮系宗教団体を精神的支柱に持つ団体が起こした事件(血盟団事件や
五一五事件など)との関連を疑われ、治安維持法に基づいた弾圧を加えられることとなった。

その後、折につけ特高からのマークや嫌がらせのような弾圧を受けたが、後に特高がでっち
あげたクーデター計画や女性団員に対する暴行などが発覚して、盟主が特高を告訴するに
至ってマスコミの疑惑の目は逆に特高に対して向けられるようになった。
この後さらに特高の日蓮会に対する弾圧は苛烈を極め、会員の脱会者が相次ぎ、数少ない残され
た会員は日に日に病気を進行させて死期の近い盟主を見るにつけ血判宣言のごとく死のうと
考えるようになっていた。
残り少なくなった5人が国に対する弾圧を訴えて、自決を演じることとなった。自決のそれぞれ
の場所は警視庁、国会、首相官邸(と思って入ったが外務次官邸)だった。この自決劇(もと
もと示し合わせて自決を演じただけだったため致命傷を受けたものはなし)の後、歌舞伎座や
電車の中で「死のう」と書かれたビラをばらまくなどの行為が相次いだ。
翌年に盟主が病死し、数少なく残っていた団員達は盟主の後を追って次々に自殺を遂げ、最後
に残った団員が定期船の船上から突然「死のう!」と叫びながらビラを撒いて海中へ没し、
ここに完全に「死のう団」(彼らは一度もその名を名乗ったことは無くマスコミが作り上げた
造語)なる結社は終焉した。

死のう団事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E3%81%AE%E3%81%86%E5%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

165:名無しさん:2014/03/28(金)17:33:40 ID:UEGbaU1Ir
蛇の目寿司事件

昭和40年東京の寿司屋で発生した傷害致死事件。
被告となったのは聾唖者で当時の障碍者に対する差別が浮き彫りにされ、その後の障碍者に対する人権
問題提起の大きなきっかけとなった。

発端は店内にいた聴覚障碍者の二人の青年と、手話を見てそれをからかった他の客三人とが起こした
喧嘩だった。三人は奇異の目でからかい、聾唖の青年がそれを何度も制止したにもかかわらず喧嘩と
なった。これを見た店主が喧嘩の仲裁に入ったところ、口で言ってもわからない状況に店主が聾唖の
青年に対して激昂してしまい食器等で殴打するような状況となった。青年は争いになるなか、店主を
投げ飛ばしたところ運悪く後頭部を強打してそのまま翌朝に死亡した。

事件としては不運な傷害致死ではあるが、裁判中に聾唖の青年が、裁判所の準備した手話通訳者と意志
疎通がうまくできず、明らかに自分の主張が通じていないとして何度も手話通訳者を交代するよう
訴えたが聞き入れられ無かった。最終的に通常より重い懲役四年の実刑判決を受けることとなった。
この時代はまだ聾唖者に対する手話通訳の重要性が認識されておらず、戦時中は手話通訳そのものが
禁止されるというようなこともあり、意志疎通の十分にできる環境にはなかった。また裁判所でも
通訳を受ける権利は保障されていなかった。

この事件を契機に聾唖者に対する権利主張が活発化し、手話通訳運動にまつわる重要な契機となり、
手話通訳に従事する者は必ず知るところとなる案件となった。

蛇の目寿司事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9B%87%E3%81%AE%E7%9B%AE%E5%AF%BF%E5%8F%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6

166:名無しさん:2014/03/28(金)18:13:52 ID:UEGbaU1Ir
戸塚ヨットスクール

昭和58年に発覚した航海技術養成学校「戸塚ヨットスクール」で起きた一連の生徒不審死事件。
立件された案件で死者3名行方不明者1名。他体罰によると考えられる傷害は多数あるとみられ、さらに
事件後に再開された学校での再びの自殺や自殺未遂が平成20年代に入って相次いでいる。

事件のあった本校は、発覚前まではマスコミに青少年育成に効果がある学校として好意的に取り上げられ
ていた。当時の世相として、経済的に安定期に入ってきていたことから子供の教育に目を向けられ、子供
の不登校や情緒障害児などに対する治療や指導に注目が集まっていた。同校はマスコミに取り上げられる
と同時に生徒が増加、校長は時代の寵児となっていた。

マスコミが注目する中、発生した事件が必然的に発覚する事態となり疑惑の目を向けられるようになった。
昭和57年に発生した高知県沖太平洋上での少年2名が行方不明となった事件では、入校を拒否する二人
を強引に連れていき格子戸を嵌めた部屋で手錠をかけて監禁し、常に逃走防止の監視をつけるという状態
で、入所からたった20日間ほどで洋上で消息を絶った。同年12月に13歳の少年が入校一週間で校長と
コーチから、ヨットから何度も投げ落とされて死亡。遺体の状況から傷害致死であると警察は断定、
スクールを家宅捜索し校長以下コーチらを逮捕するに至った。

その後の裁判で校長らは教育にすぎないことを訴えて裁判が長期化。15人全員の有罪が確定するまで実に
19年を要する長期裁判となった。

なお冒頭で記述した通り、校長は平成18年に出所。スクールを再開する旨をマスコミに語り、その通り
スクールに返り咲いた後、複数の生徒自殺・自殺未遂事件を起こし、新たな疑惑の渦中にいる。

戸塚ヨットスクール事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E5%A1%9A%E3%83%A8%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

167:名無しさん:2014/03/28(金)18:13:58 ID:phavDwFpi
江川事件

江川事件とは、1978年(昭和53年)のドラフト会議前日にプロ野球セ・リーグの読売ジャイアンツとの電撃的な入団契約を結んだ投手・江川卓の去就をめぐる一連の事件。別名、「空白の一日事件」


当時江川卓は高校野球界の怪物として一世を風靡していた。

例としてはノーヒットノーラン9回・完全試合2回、春の甲子園における大会通算最多奪三振記録などの数々の輝かしい記録を残していた。

そんな彼にプロのスカウトたちは是非わが球団へと連日江川の家に押しかけていた。

しかし彼の選んだ道はプロではなく大学野球であった。

彼の意思は決して揺らぐことはなく、遂に法政大学に入学した。


法政大学でも活躍し彼が四年生になった時、彼は巨人への入団の意思を表明した。またこれを受けて巨人側も江川を一位で指名する方針を固めていた。

しかしこの年に行われたドラフト会議では4年前と同じくクジによって球団の指名順位を決定する「変則ウェーバー方式」が採用されており、この時の指名順は1番目がクラウンライターライオンズ、2番目が巨人だった。

クラウンは江川指名回避に動いていると情報があったため(クラウンは地元出身の門田富昭を1位指名するという情報があった)巨人側は江川の獲得は確実と思っていた。

しかし、当時観客動員で苦しんでいた福岡市の球団であるクラウンライターが経営再建の切り札にする目的でなんと江川を1位強行指名した。

これに対し江川は「九州は遠い」という理由で入団を拒否。

江川はドラフト後、作新学院職員という身分でアメリカへ野球留学を行った。

大学から社会人野球チームに入団すると最低2年間はプロ野球入団が禁じられる規則があった為、社会人野球への選手登録をしないで翌年のプロ野球入団が可能な野球留学を選択したのである。

しかし事件は突如として起こる。


1978年11月20日、江川はアメリカ留学を突如切り上げて緊急帰国。

その翌日の11月21日(1978年度ドラフト会議の前日)に、巨人は江川と入団契約を締結したのである。

巨人側は「ドラフト会議の前日は自由の身分で、ドラフト外の選手として入団契約可能」と解釈し、ドラフト外入団という形で契約締結を決行する形となった。


これが所謂「空白の一日」である。



江川事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%B7%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6

168:名無しさん:2014/03/28(金)18:38:39 ID:Gkw1tfaOM
ひめゆりの塔事件

1975年7月17日に沖縄県糸満市で発生した、日本の新左翼系過激派による皇太子明仁親王および同妃美智子に対する2つのゲリラ事件の総称である。
皇室としての第二次世界大戦後初の沖縄県訪問に際し、皇太子および同妃に、新左翼党派・沖縄解放同盟準備会と共産主義者同盟の各メンバー2人が、潜伏していた洞窟や白銀病院から火炎瓶やガラス瓶、スパナ、石を投げつけたテロ事件。皇太子および同妃や関係者に大きな怪我はなかった。

白銀病院でのテロ
正午頃、糸満市にある白銀病院に病気を偽装して「入院」していた「患者」と「見舞い客」に偽装した沖縄解放同盟準備会の活動家2人が、病院の下を通過する皇太子および同妃の車両に3階のベランダから「皇太子帰れ、天皇制反対」等と叫びながらガラス瓶やスパナ、石などを投擲し、警備車両を破損させた。2人は公務執行妨害の現行犯で逮捕された。またこの際に、活動家の犯行を阻止しようとした同病院の医師らが活動家から暴行を受けた。

ひめゆりの壕でのテロ
ラジオで白銀病院事件を含む地上の情報を聴いていた知念ら「ひめゆりの壕」の2人は、実況中継で午後1時5分頃に皇太子および同妃がひめゆりの塔に到着したことを知る。2人は地下壕に梯子を架けて、地上に這い出ると、皇太子の足元に向けて火炎瓶を投擲した。火炎瓶は献花台に直撃して炎上したが、皇太子妃が警察官に庇われて地面に倒れた際に打撲傷を負った以外は、皇太子および同妃に大きな怪我はなかった。知念ら2人は「礼拝所不敬罪」並びに「火炎瓶処罰法」違反の現行犯で逮捕された。
なお事件直後に皇太子は、まず案内役を務め同行していた「ひめゆり会」会長の身を案じて声をかけた他、事件の発生に動揺する警備担当者を処分しないように関係者に依頼し、その後のスケジュールを皇太子妃とともに予定通りこなした。

169:名無しさん:2014/03/28(金)18:57:10 ID:phavDwFpi
桜田門事件

桜田門事件は1932年(昭和7年)1月8日に発生した昭和天皇の暗殺を狙った襲撃事件。犯人の朝鮮人は天皇に対する暗殺未遂の罪である大逆未遂罪に問われ、死刑となった。


桜田門は皇居にある門の一つであり、1860年には江戸幕府大老・井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」の現場でもある。


1932年1月8日、昭和天皇が乗車した馬車が桜田門外を進行中に、沿道から手榴弾が投げつけられた。しかし手榴弾は威力が小さかった上に的を大きく外れ、宮内大臣・一木喜徳郎乗車の馬車左後輪付近で炸裂した。


これにより近衛兵1人が負傷、馬車は破壊され馬2頭が負傷した。


犯人は、大韓民国臨時政府が組織した抗日武装組織韓人愛国団によって派遣された刺客・李奉昌であった。李は昭和天皇が観兵式に臨席することを新聞で知り、犯行の前々日に偶然入手した憲兵の名刺を使って観兵式の警戒網を突破したが、精神的動揺のために襲撃に失敗したものであった。


逮捕後、李は大逆罪に問われ、同年9月30日に大審院において死刑判決が下り、10月10日に処刑。


事件発生を受けて犬養内閣は責任を取るために内閣総辞職を決定するが、翌9日に昭和天皇からの慰留によって、犬養毅首相以下全閣僚が残留することになった。ちなみに上海では中国国民党機関紙「民国日報」が事件について好意的な報道をしたことから、現地の日本人社会による糾弾運動に発展して日中関係が緊迫化し、これが第1次上海事変の原因の1つになった。


桜田門事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6

170:名無しさん:2014/03/28(金)19:04:23 ID:UEGbaU1Ir
張作霖爆殺事件

昭和三年に中国満州鉄道連長線上で起きた満州奉天軍大元帥張作霖を狙った列車爆破事件。
本件においてターゲットとなった張作霖含め側近ら17名が死亡。
日本軍によるテロで、直接の実行は関東軍と朝鮮軍で行われた。

当時中国は国民党と共産党が南部で争っており、第一次国共合作を反古にして共産党を
412クーデターで弾圧した蒋介石が南京国民政府を立てるにあたり国民党が優勢な状況と
なっていた。国民党には反共で目的が合致している列強がバックにおり、国民党はこれを
うけていよいよ北伐を開始しようとしていたところだった。
張作霖は当時日本軍のバックアップを受けて関東を拠点に奉天軍を組織しており、国共合作
破棄後のライバルの退場を受けて増長し、北京へ入城したのちに大元帥を名乗って北部をほぼ
制圧するとともに次第に反日的な欧米勢力へのすり寄りがみられた。また関東軍の意向にも
従わなくなってきていた。
しかしながら、南部で国民党が力をつけており、さらに日本軍では関東に新国家を打ち立
てる動きがあり、張作霖の立場は微妙になりつつあった。張作霖はその後国民党にすり寄る
姿勢をみせて、関東以西を明け渡し関東で勢力を維持する密約を取り付けていた。
また時を同じくしてアメリカが九か国条約を提示して満州での関東軍の動きを抑制する動き
を見せ、日本にとっていよいよ張作霖の存在が不要のものとなりつつあった。
そのような中、秘密裏に爆破テロは実行された。

本件は直接的には実行犯である関東軍大佐が停職の後退役(ただしその後満州の石炭鉱山の
理事長となって巨万の富を得ている)、田中義一内閣が責任を取らされて総辞職となった。
また張作霖の息子張学良はこのときすでに国民党と和解しており、事件の真相を知って激怒
して奉天軍がそのまま国民党政府に合流することとなった。
これは日本の関東での影響力を直接弱めることにつながり、のちの満州事変から日中戦争へ
の原因となった。

張作霖爆殺事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96%E7%88%86%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

171:名無しさん:2014/03/28(金)19:22:42 ID:phavDwFpi
>>170
いいっすねぇ…
この辺の時代は本当に面白い
139:名無しさん:2014/03/28(金)14:12:46 ID:xxZhfKYtg
知らない事ばっかりだよ
昭和ってすごかったんだな
激動の時代「昭和」の様々な事件
引用元:http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1395926269
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